Mar 22, 2010

身に着けている人がたくさんいるパワーストーン

日常生活でパワーを身につけている人もたくさんいるのではないかと思います。パワーアクセサリーは通信販売で購入することができます。パワーは、毎日持ち歩くして魂を寄り添われて効果が発揮されることが知られています。パワーは、誕生日プレゼントとして与えても満足しているので、おすすめです。
パワー自体をインテリアの素敵な容器に入れて飾っている人もいると思います。また、パワーを身につけると言えば、最も多いのは、ブレスレットタイプというか、数珠タイプだと思います。気にならない人は平気だとは思いますが、数珠タイプだと、ちょうど、まさにパワーを付けているという感じがして少し抵抗があります。そこで最近では携帯ストラップでおしゃれな感じのものがあり、ネックレスとしてもおしゃれなものが出ているようです。どうせなら、パワーストーンの恵みを得ながらも、洗練されたお勧めします。私は最近、見つけたものは、パワーを地球に似た加工されているキーホルダーでした。キーで非常に洗練されたものです。これでパワーを得ることができると、また最高ですよ...と一人喜んで私は、です。
 11月11日(金)〜13日(日)に富士スピードウェイで開催される『JAF Grand Prix SUPERGT & Formula NIPPON FUJI SPRINT CUP 2011』の、東西対抗戦の“応援団長”がファン投票の結果決定。東軍は織戸学、西軍は谷口信輝が務めることになった。

 この東西対抗戦は、参戦するドライバーの出身地などで東西に分け、その成績によりポイントを加算。さらにスタンド裏でファンが購入する応援グッズ、全国の名物を販売する“東西対抗グルメ選手権”のポイントも加算。ドライバーたちとファンで争い、JAFグランプリを盛り上げるもの。

 すでに東軍、西軍のキャプテンとしてそれぞれ本山哲(東軍)、脇阪寿一(西軍)が決定しているが、キャプテンとともに大会を盛り上げる役を担うのが、今回の総選挙で選ばれた応援団長だ。大会公式サイト(<u><a href="http://www.fujisprintcup.jp" target="_blank">http://www.fujisprintcup.jp</a></u>)での投票では、東軍は織戸が山本尚貴(FN/GT500)を抑え564票差をつけトップに。一方、西軍は谷口が大差をつけてトップとなり、それぞれ応援団長に就任することとなった。

 応援団長に就任することになった織戸は「東軍の応援団長に選んでもらったことは、とても名誉なことだと思っています。僕は東の出身というだけでなく、富士スピードウェイ育ちのドライバーですからね」と意気込み。

 一方の谷口も「正直言って、応援団長ってガラじゃないけれど、広島生まれ、広島育ちのドライバーとして、西軍の優勝に力いっぱい貢献したいですね。僕は僕としてがんばるし、他の西軍のドライバーも応援しますよ!」と大会公式サイトに語っている。

 ドリフト界、チューニング界でも人気のふたりは、ふだんから仲も良いだけに、ライバル意識も今から全開。「西軍の応援団長は『谷口』!? これはよけいに負けるわけにはいきませんよね!(織戸)」「東軍の応援団長は織戸選手だって!? これは意地でも負けらんないね(谷口)」と火花が散っているようだ。

[オートスポーツweb 2011年11月02日]

【新・関西笑談】世界一なでしこの“キセキ”(8)

 □サッカー女子日本代表コーチ びわこ成蹊スポーツ大准教授 望月聡さん

 −−小学生でサッカーを始められたんですよね

 望月 小学4年から地域のスポーツ少年団に入って1週間に1回やるかやらないかでした。ほとんど遊びですよ。指導者も地域の方で、サッカーをやっていた方でもなんでもない。

 −−でもサッカーにはまったんですね

 望月 サッカーはそれくらいで、野球だったんです。王(王貞治さん)や長嶋(長嶋茂雄さん)にあこがれながらもサッカーやってたぐらいですから。自分でいうのもなんですけど、運動神経は良くて何やっても得意でした。というのは父が、ちっちゃいころからいろんなことをやらせてくれたからなんですよ。今でこそはっきりわかっていることですが、ちっちゃいころにいかにいろんな運動をしていることが大事かということです。

 −−守山高校(滋賀県)時代にはインターハイや選手権大会でベスト4。ヘディングが強いというイメージがありましたが

 望月 僕はヘディングが嫌いでした。頭、痛いんで。ただ背が181、2センチだったんで、負けるわけにいかないじゃないですか。基本的にスポーツ選手は負けず嫌い。ジャンケンだろうと、ジュース早飲みだろうと、神経衰弱だろうと。私もそういうタイプだったんで、ヘディングだろうと、シュートだろうとすべてにおいて負けるのはいやでした。

 −−その後、名門の大阪商業大学に進学。どんな大学時代でしたか

 望月 大変でしたけど、いい4年間でした。二度と行きたくない大学ですけどね。というのは多分日本で一番厳しい、苦しいサッカー部だったと思います。「大商大には行きたくない」というのがみんなの意見でした。(監督だった上田亮三郎・現大商大サッカー部総監督の)練習も厳しいし、先輩も厳しい。卒業すると、どんだけしんどい仕事しても「死なへんからいいやん」っていう感覚なんです。その経験って大きかったと思います。

 −−社会人になって日本代表にも選ばれました

 望月 日本鋼管(NKK、現JFEエンジニアリング)で2年ほどやったときに代表に入ったんです。1990年のイタリアW杯の予選でした。国交のない北朝鮮で試合やったり、いい経験できました。

 −−その後、浦和レッズに。Jリーグ発足元年は盛り上がりました

 望月 いい時代でした。レッズのサポーターが阪神(タイガース)みたいで、すごかったんですよ。負けると次の日は外出しなかった。危ないんで。でもそれだけ地元に根付いたすごいチームでした。

 −−現役引退は京都パープルサンガでした

 望月 レッズで出番が薄くなってきたときに京都に呼んでもらって。京都で2年半ぐらいやって、「来年契約ないよ」というゼロ提示が来た。冷静な判断ができないですよね。トップのコーチとして残ってもらおうと思ってるっていってくれはったんですけど、ちょっと待ってもらいました。家族で考えた後、最終的には選手でやりたいっていう情熱を指導者に向けてみようかなって。それで33歳から指導者になりました。(聞き手 濱田慎太郎)

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